幻想列車区

モスクワから東へ約4,100キロ。
天気は晴れ。西からの風。
クラスノヤルスク近郊の陸橋上で、僕は三脚を組み立てていた。

シベリアに昇る太陽は、世界をすっかり明るく照らしている。
僕の頬を撫でるのは、冬の鋭い刃物のような風ではなく、ほんの少しの湿り気を帯びた草木と、古い潤滑油の匂いが混じった柔らかな空気だった。

針葉樹の森を見渡せば、深い緑の海となって波打っている。この圧倒的な緑の沈黙の中にいると、自分がどこから来て、どこへ行くのかさえ、どうでもよくなってくる。日本での窮屈な役割も、誰かとの約束も、ここでは意味をなさない。

僕はただ、この広大なユーラシア大陸の大動脈を流れる、一本の列車を待つだけの孤独な観測者だった。その頼りなさが、今はたまらなく心地よい。

カメラのファインダーを覗き、構図を決めたら、直近の目撃情報からメモに書き起こした編成表を確認する。
今回の狙いは、シベリア鉄道7列車。看板的存在の1列車「ロシア号」の運休日に同じスジを走る区間列車だ。極東のウラジオストクから「シベリアの首都」ノヴォシビルスクを結び、予定通りなら機関車込みの18両編成で来るはずだ。


シベリア鉄道7/8列車編成表

そうしていると、不意に背後でサンダルがアスファルトに擦れる音が聞こえる。

振り返ると、早朝の散歩か、あるいは農作業へ向かうのか。花柄のブラウスを着たバーブシュカ(おばあさん)が、大きな籠を抱えてこちらを通り過ぎようとしていた。

彼女は足を止め、カメラを構える僕を、まるで奇妙な外来種を見るような目で見つめた。
言葉はない。ただ、深く刻まれた眉間の皺が、異邦人への警戒を物語っていた。僕は軽く会釈をしたが、彼女は鼻を鳴らすと、朝日の中に消えていった。

「いやいや。たぶん大丈夫……なはず。」独り言をこぼし、またファインダーを覗く。

日本で調べた情報では、シベリア鉄道の撮影を咎められることはほぼないと書いてあった。しかし、周辺住民などがポリツィヤ(警察)を呼べば話は別だ。

そして、嫌な予感ほどよく当たるものはない。
未舗装の路面を跳ねるようなタイヤの音。そして、青と白の塗装が施されたパトカーが、朝日を反射させながら陸橋のたもとに止まった。

車から降りてきた二人の警察官。一人は熊のように大柄で、もう一人はまだ若く、鋭い眼光を放っている。砂混じりのザクザクとした足音が階段の向こうから近づいてくる。

あぁ、なんてことだ──。

「Паспорт!(パスポートを)」

僕は、静かにパスポートを差し出した。
大柄な警察官は、臙脂色の表紙をまじまじと見つめ「Япония…(日本か……)」とつぶやくと、パラパラと中身をめくりはじめる。

「Why are you here so early in the morning?(なぜ、こんな朝早くにここにいる?)」
よどみなく英語に切り替わったことに少し驚く。
ロシアというと英語が通じないイメージがあったが、これならまだなんとかなりそうか。とにかく今じゃない。頼む、早く終わってくれ。

「その……列車を撮るためです。シベリア鉄道の。」
あるページで警察官の指が止まる。数年前の、ウクライナの入国スタンプ。
空気が一瞬変わった。彼は若い同僚と視線を交わし、ロシア語で何かを低く呟く。

「ウクライナには、何の用で行った?」
「チェルノブイリを学ぶために。歴史と、あなたたち祖国の英雄のことを。」

今日の宿泊先は?
ロシアにはいつまで滞在する?
日本での仕事は何だ?

淡々と質問が続く。朝日を浴びているはずなのに、背筋に冷たい汗が伝う。
それもそうだ、彼らにとって、僕はただの旅行者ではなく、不穏な背景を持つ「点」に過ぎないのだから。

遠く、針葉樹の森の向こう。列車の音がかすかに聞こえはじめた。朝の澄んだ空気を、長距離列車の重厚な足取りが震わせる。
あと数分。これを逃せば、僕がこの旅で追い求めてきた「一瞬」は、永遠に失われる。焦る僕を試すように、警察官は僕のカメラを覗き込み、それから僕の顔をじっと見つめた。
張り詰めた沈黙。しかし、大柄な男の顔に、突如として場違いな笑みが浮かんだ。

「お前の英語、なかなかいいな!聞き取りやすくて助かったよ。」
「え?」
「いや、実は独学で英語を勉強していてね。だが、この辺りにはめったに外国人が来ない。だから、東洋人のお前で試してみたくなったのさ。」

彼は陽気に僕の肩を叩き、パスポートを返してくれた。ウクライナのスタンプからはじまった厳しい追及も、これまでの威圧感も、すべては彼の「練習」のための演出だったというのか。
僕は呆然と立ち尽くしたが、彼は意に介さずパトカーへと戻っていく。

「ほら、来るぞ!ジャパニーズ!最高の写真を撮れよ!」

彼の叫びと同時に、森の向こうから長大な列車が姿を現した。

僕は夢中でファインダーにしがみつく。レンズ越しに見るその姿は、あまりにも長大で、そして孤独で、何にも縛られずに突き進んでいる。

機関車のモーターが叫ぶ。ダダンダダン、ダダンダダン。規則正しい金属音が世界を支配する。
列車の最後部には、7日前に七尾を出発して穴水、輪島、ウラジオストクと駆け抜けてきた、のと鉄道のNT102号車がぶら下がっている。

僕は、それを確かめてシャッターを切る。

シベリア鉄道7列車ノヴォシビルスクゆき

輪島の次は「シベリア」それは、誰かの落書きだとずっと思っていた。

でも、それは確かにここに存在している。シベリアの空気が、光が、影が、そしてこの列車が、シャッターを押す僕の指先を通じて記録へと変わっていく。

列車が去った後、再び深い緑の静寂が戻ってきた。
パトカーも遠ざかり、僕は一人、また陸橋の上に取り残される。

頬を撫でる夏の風は、先ほどよりも少し温かくなっていた。
言葉が通じないもどかしさも、拭いきれない孤独も、この広大な大地の上では、自由であるための対価に過ぎないのかもしれない。

僕は三脚を畳み、まだ湿った土の匂いを深く吸い込む。
誰も僕を知らない。僕はどこへ行ってもいい。
カメラバッグを背負い、僕は次の「孤独」を探して、輝きはじめた朝の道へと踏み出した。

* * *

「そろそろ行こうぜ!レンタカー返さないと!」友達が僕を呼んでいる。
「え?あ……うん。ごめん、今行く。」

白昼夢の中にいたのだろうか。
頭の中がふわふわとして、身体も心も妙に温かい。

これは、僕の夢?いや、違う。
この夢はきっと、線路の上で眠るNT102号車が見せてくれたのだろう。

寄り道してよかったよなと、友達は満足そうに笑いながらエンジンをかける。

NT102号車

能登線の廃止から21年──。
眠るNT102号車を彩るように季節は巡る。

奥能登にも、また、春がくる。

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