幻想列車区

東海道本線大井競馬場支線

1.──そもそものこと
僕の実家は、小さな団地だった。 ベランダから見下ろすと、そこには草だらけの線路があって、たまに通るオレンジ色の電車が部屋をガタピシ揺らした。部屋は狭くて、天井も低くて、キッチンで料理をする母の背中はいつも曲がっていた。
リビングではハイライトをふかしながら読書をする父がいて、僕はダイニングテーブルで勉強をしている。みんなバラバラのことをしているけど、一緒の空間にいる。遠いようで近い、そんな家族の風景があった。
僕にとっての鉄道の原風景というのはそういうものであって、生活の背景にはいつも大井競馬場支線のオレンジ色の電車があった。

僕とオレンジの電車

2.──路線のこと
東海道本線大井競馬場支線は、1950年(昭和25年)に開場した大井競馬場のアクセス路線として、品川駅から日本専売公社品川工場まで伸びていた専用線を改修・延長することで1953年(昭和28年)に開業した。

配線略図

終点の大井競馬場前は電留線が2本用意され、臨時電車の運用にも対応。昭和30年代は、池袋電車区の赤羽線用電車を使用した臨時電車が池袋・新宿から山手貨物線・品鶴線を経由で運転されていたという。
ただこの臨時電車、品川駅構内で複雑な入換作業を伴うことから運転扱いが非常に煩雑で、利用客の少なさもあってほどなく運転取りやめとなっている。
こうして、完全に遊休設備となってしまった大井競馬場前の電留線は、田町電車区で余剰となった車両の疎開先としても利用されていて、サロ165を抜き取られた153系が色あせ朽ち果てるまま廃車を待つ姿を覚えている。

疎開中の153系

昭和40年代になると閑散期の需要喚起のために、鮫洲免許試験場の目の前に「免許試験場前」仮乗降場が設置された。仮乗降場とはいえ、出札窓口も設けられ国電区間のキップを買うことができたようだが、電車の本数は少なく路線の知名度も低かったために、たまにしか来ないヨソモノには「得体の知れない路線」でしかなかったのだろう。残念ながら利用者は少なかった。

いまになって思えば、東京の街中でわざわざ仮乗降場として設置したのも、管理局が自分たちの裁量やれる精いっぱいの旅客誘致策だったのだろう。

そんな「免許試験場前」仮乗降場も民営化と同時に正式な駅として昇格して、廃線まで存在していた。

そうして、分割民営化の波を乗り越えた大井競馬場支線ではあるが、その頃すでに品川駅の東側は貨物ヤードが広大な空き地となっていて再開発の計画が進んでいた。
同時期には、専売公社(JT)品川工場でも再開発の話が進んでいたことから、大井競馬場支線はそれら再開発計画の支障になることが懸念されていた。

そうした状況下で、大井競馬場支線の存廃が議論されるようになり、地元自治体やJR東日本、国鉄清算事業団を中心に土地利用に関する研究会が発足。路線の存廃、土地利用や都市計画についての議論が重ねられた。

その結果、大井競馬場支線は競馬場アクセス路線として「一定の役目を終えた」こと、そして沿線の輸送は将来的に「りんかい線」が担うこととして、大井競馬場支線は1992年10月25日をもって廃線になることが決定した。


3.──列車のこと
そもそもは専売公社の専用線だった大井競馬場支線は、分割民営化の直前まで貨物列車が1日1往復残っていた。
専売公社の工場手前までが品川駅構内という扱いになっていたので、列車は入換扱いで係員の誘導を受けながらゆっくりと往来していた。DE10がワム2〜3両もっての運転が基本で、工場手前で加藤製作所製の10トン入換機にバトンタッチしていた。

疎開中の153系

そして、旅客列車の中心を担っていたのは、バーミリオンオレンジの101系。1980年頃に中央線から2連2本が支線専用として田町電車区に転属。塗装もそのままに使われていた。
通常のダイヤでは、ほぼ全時間帯で1編成が往復する運用で、ラッシュ時わずかに増発されるときに2編成が運用に入っていたので、検査時などには113系の付属編成が代走した。
ホーム有効長の関係で211系・185系の付属編成は入線できなかったが、運用の都合で静岡の113系が運用に入ることがあって趣味者を喜ばせた。

大井競馬場前

競馬開催日は臨時ダイヤで早朝・深夜以外は113系の付属編成が運用入りするため、101系は2本とも田町電車区で昼寝となっていた。
分割民営化の直後から大井競馬場支線の存続が議論されていたせいか、冷房改造やワンマン化のような投資をされることもなく、非冷房・車掌乗務のまま最後まで運転され1992年(平成4年)の廃線と同時に廃車となってしまった。


4.──最終日のこと
1992年(平成4年)10月25日品川駅港南口──。
ローカル線の旅にでも出てきそうな小さな駅舎でキップを買って改札を抜ける。
地下通路に降りず左に進むと1面1線の短いホームがある。賑やかな高輪口と比べると、同じ品川駅とは思えないそのホームに2両編成の101系が停まっている。
「競馬場線」や「馬線(うません)」という通称で呼ばれていたこの路線が発着するホームは、最後まで何番線という表示すらされておらず「大井競馬場線のりば」と案内されていた。

JRマークこそ付いているが、非冷房で色あせたオレンジバーミリオンの車体はまるで国鉄時代から変わらない。乗客は2両編成に10人いるかどうか。そのうちの何人かは熱心な趣味者らしく、彼らの姿がこの路線が廃線になる日であることをどうにか感じさせた。

発車時刻の直前になって、運転士と車掌がやってくる。それぞれが乗務員室に入ると、ツツーとブレーキの緩解音、続いてコンプレッサーがドドドドドッと回りはじめる。
発車ベルが鳴るも、駆けこむ乗客の姿はなく、車掌が短くピッと笛を吹くとドアがバタバタッと閉まる。
軽やかなのに哀愁漂うモーター音を響かせ、ユラユラと車体を揺らしながら発車していく101系を見送ると、ホームには時計の針が止まったかのような静寂が訪れた。

1992年10月25日。品川駅の片隅で、見送る人の姿もなく消えていった大井競馬場支線。消えたというよりも「忘れられた」という言葉のほうがふさわしい鉄道風景であった。

あれから20年近くが経ち、港南口の景色は一変した。
新幹線の駅ができ、アトレやエキュートができて、街の姿自体も面影のないほどに変わった。
薄暗くてジメッとしていて、大雨が降れば冠水していた高輪口への地下通路もなくなって、天井の高い自由通路がその代わりをしている。

レインボーロード

そうして気づけば、朝の通勤ラッシュにこの自由通路を歩く人の流れは、現代のサラリーマン社会を象徴する風景になっている。一人一人が東京という世界有数の都市で、最先端のオフィスビルで働いている。日本の中でもかなり豊かな人たちのはずなのに、その風景に「精神的な豊かさ」を一切感じ取れないのは僕だけなのだろうか。

あるいは、そんなことを思う僕のほうが時代に取り残された人間なのだろうか。僕の心の中にある時計の針は、あの日の「大井競馬場線のりば」のように、止まったままになっているのかもしれない。

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