幻想列車区

ムーンライト台北

大阪駅にて

深夜2時ごろ。列車は淡々と同じリズムでジョイント音を響かせる。
気だるい空気に包まれた車内で人々は寝息を立てていたり、車窓を眺めたり、思い思いに過ごしている。
心がじわりと何かに締め付けられるような、自分がひどく無力に感じるこの感覚。
焦燥、不安、疎外、孤独――。
どの言葉も当てはまるような、そうでないような。

いつもなら友人とのくだらない話でそんなことをすっかり忘れてしまったり、酒を飲んで気を紛らわせてそのまま寝てしまうことも出来ただろう。
しかし、僕はいま一人で、リュックの荷物に酒なんて重たい物は入ってない。
どうやらこの気持ちと向き合うしかないようだ。

きっと、列車というのは思案を巡らせるにはとてもいいところなのだろう。

大勢の乗客が同じ空間を共有しているけれど、乗客たちは誰も他人のことなんか気にかけていない。孤独なようで、そうでないようで。
そういうぼんやりとした空間だからこそ、僕は色々なことを考えても深く沈みすぎない。
こうして僕がデッキに寄りかかって思案を巡らせている間にも列車はどんどん進んで、僕を見知らぬ土地へと誘ってくれる。
列車を降り立てば、僕は見るもの感じるものに心を奪われてしまって、さっきまでのことなんてすっかり忘れてしまえるのだから。

「あの、すみません。」
その声に振り向くと、僕と同い歳くらいの男性が立っている。
ポロシャツにジーンズという軽装に片手には口を結んだコンビニのビニール袋。
「ゴミを……。」と言われ、自分がデッキのくずもの入れを塞いでいることに気づいた。
場所を譲りながら謝罪し、自分の席に戻ろうとしたら彼がふたたび声を発する。

「日本の方ですよね?ご旅行ですか。」
「あぁ、そうです。あなたも?」
「そうなんです。好きで年に何度も乗って通ってます。あ、これも。」
彼が腰のポーチから取り出したのは出入国審査で優先レーンを利用できる常客証というパスだった。年に3回以上の入国していないと申請できないので、彼はそれだけ頻繁にこの列車を利用しているということになる。

「これはすごいね。でも、いまなら飛行機のほうが安いんじゃ?」
「ダメなんですよ。俺は飛行機が大の苦手で……それに夢があるじゃないですか。」
「夢?」
「島国日本の国際列車ですよ。夢に溢れていると思いません?」
「なるほどなぁ。僕はそんなこと考えたことがなかった。確かに、夢がある。」
本来、島国である日本には国際列車というのは存在しない。厳密に言うと、存在しないことになっている。
ところが、僕たちはこうして日本発の国際列車に乗って台北を目指している。

すべてが夜行列車で人目につかない終電後に発車し、始発の前に到着する。駅の案内表示や時刻表に出ることもない。どのような原理で海を渡っているのか、どこがこの鉄道を管轄しているのか、すべてが謎に包まれた鉄道が日本には存在している。
それを知るのは、僕のような、おそらくは彼もそうなのだろう。ある特別な条件を満たした人間だけということになっている。
この鉄道を使って旅行することが多い僕はそれを当然と思っていたけれど、確かに知らない人にこんな話をしても信じてもらえないだろう。
それこそ夢の話だと思われるに違いない。

「ところで――。」
この話をしてもいいのか少し心配になったが、少しくらいならいいだろう。
なにせ、誰も本当のことは知らないのだから。
「あなたは、どうやってこの列車が走っていると思う?」
「そうですね……色々な話を聞きますね。例えば……冷戦期の遺産だとか。」
「なんの話だいそれは。」
僕がいままでに聞いたことのない話が出てきたので、彼に続きを促す。

彼によると、この鉄道は冷戦期の西側諸国が共同で研究開発して敷設された軍用鉄道の一種だったという。
日本から韓国や、台湾を経由してフィリピンへ向かう路線が敷設され、将来的にはアラスカ半島方面への延伸が予定されていた。
しかしある日、ソ連が同様の鉄道の開発に成功していることが判明。路線は試験用の仮設であるとソ連は主張したが、北海道方面への延伸が十分に考えられる線形で、しかも原子力機関車が運用されているということで水面下では大きな問題となったらしい。
そして、冷戦が終結したあとで不要となって打ち捨てられたこの路線網を、とある酔狂な世界的資産家が一部で復活させて列車を運行している、と。

「これは、なかなか興味深いね」
「夢がある、でしょ?」
「とてもね。まるでSF小説だ。」
「俺がいま考えたんですけどね。」そうやって彼がはにかむ。
「ははは。これは一本取られたな。いや、面白かったよ。」

そして彼も同じ質問を僕に投げかける。
「あなたはどう思いますか?」
「例えば……君は、駅や踏切で、このレールを辿って行くとどこまで行けるか考えたことはあるかい?」
「まぁ」

僕はよく思う。このレールを辿って行くとどこまで行けるのだろうと。

並び、交わり、別れて、離れ――。

そうやって2本のレールはきっとあの人が住む街まで繋がっているのだろうと。
もうとっくに終わった話なのに、仕方がなかった話なのに。割り切った話なのに。

そこまで考えて、ふと思う。
なにも割り切れてないじゃないか。
なにが終わった話だ。
僕はその事実が受けられず、そこから一歩も動いていないじゃないか。

「お前は旅行に出るとそう思うだけで何かした気になるんだ」ともう一人の僕が自嘲する。

「……そういう人の気持ちが、この鉄道を走らせているんじゃないかなって。」
「とても詩的ですね。」
「つまらない妄想さ。」
小さくため息をついてドアに寄りかかった。なんとなく車窓に目を向ける。

不知夜月(いざよいづき)が海原に一筋の光の道を浮かび上がらせている。
あぁ、月とはこんなに美しくて、明るいものだったのか。

並び、交わり、別れて、離れ――。
2本のレールはどこまでもつながっていく。
色々な人を乗せて、列車は何も知らないような顔をして走っていく。
あの人の住む街へ、僕が降り立つ異国の街へ。

台北の朝
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