幻想列車区

関西私鉄の気動車を訪ねて

関東鉄道常総線は常磐線の取手から利根川水系の鬼怒川に並行しながら下館を目指す非電化ローカル線である。
ローカル線といっても、昭和50年代後半の関東鉄道は茨木県下に4路線を展開する非電化私鉄では最大規模の鉄道。なかでも常総線は首都圏への通勤圏になることから複線化工事と近代化が推し進められていた時期である。 新型気動車キハ0形の投入と近代化を目前に控えたこの頃は、気動車王国・関東鉄道の黄金期といえる時期を迎えていた。

国鉄、南海、小田急、江若交通、雄別鉄道、同和鉱業小坂鉄道など様々な事業者から、多種多様な気動車を譲り受けてはラッシュ向けにドアの増設などを行って、ありとあらゆる車両を連結させて輸送にあたっていた。
まさに魑魅魍魎、百鬼夜行。あるいは気動車版琴電というべきか。出自も育ちもバラバラな車両が手を取り合って走る様は、実に興味深く好奇心をそそるものがあったのだ。

キクハ4+キハ756

カラッカラの鋭く乾いた風が吹く、冬枯れの関東平野。水田の中に築かれた築堤の上を、紫煙を燻らせのんびりと列車が走ってくる。やってきたのは、キクハ1形+キハ756形の二両編成。一見するだけでも、その怪しさたるや尋常でないものがお分かり頂けるだろう。
腰の低い17m級のキクハ1形は元・小田急の1600形。小田急時代はABF車と呼ばれていた正真正銘「電車」だ。関鉄では小田急からクハ1651〜1656・1660の7両を譲受した関東鉄道ではこれらを制御車のキクハ1形、キサハ65形に改造し、出力に余裕のある2エンジン車と編成を組んでいた。
そして、そのキクハとペアを組むキハ756形。キハ55を思わせるボディに排気筒を避けて無茶苦茶に増設された両開き戸が2ヶ所。見るからに毒々しい側面は、南海キハ5501形を改造したキハ755形とも違う外見である。
国鉄直通という使命を持って生まれたものの短命に終わり、ここ関鉄で余生を送るキハ756形。その奇妙な人生を、この車輛が生まれる背景となった歴史も踏まえて振り返ってみたい。


まずは、キハ756形の前身にあたる車両が登場する背景を整理しておきたい。話は戦前にまでさかのぼる。
第一次世界大戦では戦勝国となった日本であるが、その後の関東大震災、昭和恐慌により経済は疲弊。そこに世界恐慌がとどめを刺すカタチとなり日本経済は危機的状況に陥っていた。その後、天津軍の強化や総力戦準備体制によって軍需産業を中心に経済は回復。鉄道各社も攻めの経営戦略で、輸送力やサービスの向上に取り組んでいた。
しかし、昭和12年に勃発した支那事変で状況は一変することになる。

戦時下において軍事物資や兵力の輸送が最優先とされたため、不要不急の外出や旅行の自粛が求められた。駅には「贅沢は敵だ」「遊楽旅行廃止」「行楽輸送で大事な輸送を妨げるな」といったスローガンの書かれたポスターが貼られ、国民が旅行など出来る状況ではなくなったのである。
さらに昭和14年に入ると多客期に一般旅客の乗車制限を実施するなど、その規制は太平洋戦争開戦前から厳しさをましていく一方であった。
しかし、このように戦時の厳しい状況下にもかかわらず、旅行客の急激な増大に対処しなければならない鉄道会社がいくつか存在した。いまの近畿日本鉄道を構成する私鉄各社である。

当時、皇紀二千六百年にあたる昭和15年に合わせて様々な式典事業が執り行われることになっていた。
神国日本という国体観念を徹底させようという動きが時節により強められていたため、これらの行事は大々的に行われることになる。また、皇室に関係する明治神宮・橿原神宮・伊勢神宮などへの参拝が奨励され、これを目的とする場合の旅行は輸送統制下でありながらも、例外扱いとされていた。そのため国民にとっても戦時統制下で大手を振って旅行をするチャンスとなったのである。
昭和15年の橿原神宮参拝者は約1000万人、伊勢神宮は約800万人を数える盛況ぶりで、橿原神宮・伊勢神宮に留まらず、桃山御陵など皇室ゆかりの地を数多く沿線に有する、大軌・参急・関急電・大鉄・奈良電といった私鉄各社は、使える車両を総動員で臨時列車を設定、奉祝参拝客の輸送に全力で取り組んだのである。
昭和15年11月10日には内閣主催の「紀元二千六百年式典」が開催されることになっており、これに前後して奉祝参拝客がピークに達することは予想されていたが、奈良電や大鉄ではそれを前に臨時電車を限界まで運転しても輸送力が不足する事態となり頭を悩ませていた。
このため、増結用車両の新造が急務となり、奈良電は1939年3月に電動車3両、大鉄は電動車2両の新造認可を得た。しかし、長引く支那事変の影響で電装品などの調達が難しくなりつつあったことから、車両の新造を急ぐことはかなり難しい状況にあった。
この状況を打破するために生まれた妙案が「省線列車の大軌橿原神宮駅駅乗り入れ」だったのだ。

橿原神宮駅周辺路線図

当時の大軌は吉野線から分岐して、桜井線の畝傍〜橿原神宮駅を結ぶ小房(おうさ)線を持っていた。これを活用して鉄道省の応援を仰ぎ、省線列車が橿原神宮駅まで乗り入れることで、不足する輸送力を補おうと考えたのである。
大軌吉野線では、買収前の吉野鉄道時代から省線の湊町から吉野ゆきの「観桜専用列車」がたびたび運転されており大きな支障はなかった。当初、橿原神宮駅までの乗り入れが予定されていたが、沿線の吉野神宮への参拝客も増加により輸送力が不足する恐れがあったため、一部列車の乗り入れ区間を終点の吉野まで拡大することになった。
こうして、湊町・京都・伊勢方面の各地から省線を経由して橿原神宮前・吉野方面へと向かう省線直通列車が設定されることになったのである。
その後、奈良電では電動車から制御車に仕様を変更したクハボ600形が製造されるなど、車両の増備が進んだものの広域からの集客が見込め、のりかえの不要な省線直通列車は好評であったため規模を縮小しながらも昭和18年のダイヤ改正まで継続されたのである。
このような経緯がのちに関東鉄道キハ756形になった、近鉄唯一の気動車「キ5501系・キ5751系」の登場へとつながっていくのである。


戦局の激化により運行が中止された省線直通列車であるが、戦後の運転再開時期ははっきりとしていない。
どうやら昭和25年のダイヤ改正から湊町〜吉野間で週末運転の不定期準急3403・3402列車として運転されていたようである。 運転経路は、小房線の運転休止に合わせて湊町から関西本線、王寺から和歌山線を経由し、吉野口から近鉄吉野線へと変更されている。

定期列車として運転が確認できるのは、昭和28年3月15日のダイヤ改正からのこと。特別急行列車「かもめ」が運行を開始するなど、めざましい戦後復興の勢いを感じさせるこの改正では、地方線区に準急列車が多数新設され地方線区の主役として花開いていくことになる。
この改正から不定期準急3403・3402列車は定期列車に昇格。毎日運転の準急列車として運転されることになった。運行形態は戦前から変わらず、国鉄の客車が近鉄線へと直通するもので、近鉄線内でも戦前から客車をエスコートしていた電機51形改めデ51形が引き続き牽引していた。

運行形態に大きな変化が訪れるきっかけになったのは、昭和30年のダイヤ改正。名古屋〜湊町間に3往復運転されていた準急のうち1往復がキハ10形・キハ50形に置き換えられた。
近鉄は、これに合わせてこれからの動力近代化とスピード・旅客サービスの向上を目的に気動車による湊町〜吉野間・京都〜吉野間での国鉄直通準急の運転を計画し、国鉄と協議をはじめた。
車両限界の制約などから、国鉄直通列車の車両は近鉄が製造・保有することが決まり、当時製造がはじまったばかりのキハ55系をベースとした20m級車体にDMH17系エンジンを2基搭載した国鉄直通用気動車キハ5501系の導入が決定した。

キ5501系

車体長20,000mmながら、車両限界やタブレット防護網を設置する関係で車体幅は2,600mmと細身になった車体は、近畿車輛が開発に取り組んでいた普通鋼の軽量車体を採用。塗装はキハ55系に合わせて国鉄準急色になった。
エンジンは国鉄制式のDMH17系の設計を見直すことで定格出力を160PSから180PSに向上したものを搭載。軽量車体と出力強化を施したエンジンを2台搭載し、吉野線内での急こう配に余裕を持たせた設計としている。国鉄と比較して小柄な車体にエンジンを2台ぶら下げたこともあり、床下機器の配置と艤装には大変な苦労があったという。
こうして、キハ5501系4両が近畿車輛で落成。昭和30年3月22日ダイヤ改正から運転を開始した。

湊町発関西本線・和歌山線経由が準急「大峰」。京都発奈良線・桜井線・和歌山線経由が準急「みよしの」と名付けられた。国鉄線内は準急、近鉄線内は特急扱いとして運転された。
しかし、運行開始当初は予備車を持たず、しかも運転・検修要員の習熟が不十分なこともあり、初期不良が続発。国鉄から近鉄の車両限界に適合するキハ10形・キハ51形を急遽、借り入れることもあったようだ。

このため、近鉄では予備車を確保するために単行運転が可能な両運転台車を2両追加で製造することになった。このとき、営業サイドから上がった「既存の車両と座席数を同じにしてほしい」という要望に合わせて、客室内を中心に設計が見直されている。

キ5751系

運転台を設置するために減る座席数を補うために、乗降扉を1ヶ所に減らし、デッキを廃止。戸袋窓を追加するなどして、パズルのように座席を配置した。そうしてどうにかひねり出したスペースにトイレと水タンクをどうにか押し込むことに成功したが、洗面所を確保することはできなかった。
製造された両運転台車はキハ5751系となり、昭和32年から順次「大峰」・「みよしの」の予備車として配置された。この頃には、国鉄でもキハ55系の増備が進んでおり、接客設備の見劣りするキハ10系列を使用することによるサービス格差の問題もようやく解消されたのであった。

昭和37年のダイヤ改正からは国鉄の準急「はまゆう」が京都〜白浜口間で運行開始。「みよしの」は京都〜奈良間で「はまゆう」と併結運転を実施することになった。
「はまゆう」は京都のほかに名古屋・天王寺からも発車する多層建て列車で、奈良駅では「はまゆう」の京都・名古屋編成の併結と「みよしの」の解結が同時に行われるという気動車の柔軟性をフルに発揮したダイヤが組まれていた。

みよしの+はまゆう

国鉄の気動車準急ネットワークにも組み込まれ順調にみえた「大峰」・「みよしの」であったがその終わりはあまりにもあっけないものであった。
昭和39年10月に東海道新幹線が開業が決まると、近鉄ではいままでフラッグシップとして活躍していた名阪特急のシェアは大きく低下してしまうことが見込まれた。そのため、いままで都市間速達輸送に主眼を置いた輸送体系を、大阪・名古屋・京都の大都市からと観光地を連絡する広域特急ネットワークへと体系を改めることにしたのだ。
橿原神宮前・吉野方面への観光需要を喚起するために、京橿・吉野特急の新設が決定。680系や16000系といった特急専用車両が相次いで投入されることになった。

ここで問題となるのは国鉄直通列車「大峰」・「みよしの」の取り扱いである。
上記の新設2系統の特急と完全に運転区間が重複してしまう。当初は、国鉄直通による広域集客を目的にしていたが、自社で特急ネットワークを構築するとなればその役割も不要となってしまう。
部内でも、わずか6両しか存在しない気動車のために検修設備を維持し、要員を養成することを疑問視する意見があっただけでなく、気動車の運転要員を一部の乗務員に限っていたことや、手当の支給などを巡って労働組合からも反発する声が上がっていたのである。
なお、新幹線という未知の競合相手の登場に対して京橿・吉野特急を新設をする一方で、名阪ノンストップ特急を増発するなど特急政策に関しては部内でも試行錯誤をしている段階であり、「大峰」・「みよしの」の存廃についてもとりあえずは見送られることになった。
そうしていざ新幹線が開業してみると、京橿・吉野特急は予備車の予備車を用意してまで増発を行うほどの大盛況となる一方で、名阪ノンストップ特急は利用客数が激減。大打撃を受けることになった。この結果を受けて、近鉄も自社の特急ネットワーク拡大に自信を付け、「大峰」・「みよしの」は昭和43年10月1日「ヨンサントオ」と呼ばれる白紙ダイヤ改正に合わせて廃止されることが決まる。
動力近代化や全国特急網が拡充された華々しいダイヤ改正の裏で、近鉄唯一の気動車列車は登場からわずか13年の短い生涯をひっそりと終えたのであった。


その後、増発の求められた吉野特急でピンチヒッターとして特急運用に返り咲いたが、非冷房・ボックスシートという接客設備は16000系に比較すると大きく見劣りのするもので、乗客からの評判も悪かったことは想像に難くない。16000系の追加増備によって極めて短期間で運用を終了している。
近鉄としてもいくつかの鉄道会社に譲渡の打診をしたものの、片運転台で小回りの効かないキハ5501系では引き合いがなく廃車されてしまった。最終的にはキ5751系2両だけが六田駅の気動車用検修庫に残り、電気関係の工事列車や橿原神宮前の台車振替場で入換などに従事していたようである。
そして残されたこの2両も、かねてから引き合いがあった関東鉄道へ譲渡されることが決まり、昭和48年に吉野口の連絡線から通いなれた和歌山線の線路を経由し、静かに旅立っていった。
その後、西武所沢車両工場で座席のロングシート化とトイレの撤去、ドアの増設が行われた。従来からのドアを活かしつつ、車体中央の排気筒を避けながら1,300mmの両開き戸を2ヶ所増設したため、ドア間隔も窓割りも不均等な珍妙なスタイルに仕上がった。
こうして関東鉄道キハ756・757として再出発したキ5751系は、同時期に転入してきた元南海のキハ755形、元小田急のキハ751形・753形と共に、その大柄な車体と余裕ある出力を活かしてキクハ1形、キサハ65形と編成を組み活躍した。

キハ756形+キクハ1形

こうして奇跡的にも「大手私鉄の国鉄直通用気動車」として活躍していた3者が、関東鉄道で顔を合わせることになったのは何かの偶然であろうか。そして、第二の活躍の場が与えられ静かに余生を送れるはずだった車両たちだが、キハ300形の大量導入により1987年から相次いで廃車され、キハ756・キハ757の2両も1989年に廃車されてしまった。

かつて近鉄に存在していた国鉄直通列車とキ5501系・キ5751系。その存在は時代の流れに翻弄された儚いもので、当時のことを知る人も少ない。こうして読者のみなさまに紹介することで、当時の風景や車両たちに少しでも想いを馳せていただけると幸いである。

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